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第 2 回 インターネットの歴史

本日の内容


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2-1. 古典集合論の崩壊

19世紀の終りにカントルは集合論を発表し、無限集合などの概念を考えました。 集合論は数学の基礎を築くことのできる重要な理論でした。 しかし、このカントルの集合論からは矛盾が導けてしまうことがわかりました。 様々な人が気づいたのですが、特に有名なラッセルの逆理とは次のようなもの です。

自分自身を含まない集合を要素に持つような集合を x とする。 すると、集合 x が集合 x に含まれるか含まれないか を判定できない。 つまり次の集合 xを考える。
x= y | yy
すると xx xx もどちらも成り立たないということ。

集合論は非常に重要でしたので、この矛盾のために集合論そのものを捨てるこ とはできませんでした。 そこで、ヒルベルトは数学の無矛盾性を数学で解決しようと活動を始めました。 ヒルベルトの手法は、数学を公理と論理的なルールからなるゲームとしてとら え、そのゲームに矛盾が生じないことを示そうと言うものでした。これを形式 主義と言います。

一方で、集合論の矛盾の発生原因は背理法のような非構成的な主張(存在しな いと仮定すると矛盾するから存在する)を認めていることにあるという立場か ら、二重否定を肯定と認めない直観主義という論理がブラウアな どにより発案されました。 直観主義論理により構成された数学は従来の数学(古典論理)に比べて証明の手 間がかかり、また証明できることも減るので、ヒルベルトとは相互に激しい論 争が起きてました。当時雑誌の編集を担当していたアインシュタインは「蛙と 鼠の戦争」と揶揄しました。

二十世紀が始まって 30 年、数学の基礎に関する様々な議論が行われ、数学基 礎論という一つの分野が生まれました。 そして、ヒルベルトが引退しようとする 1930 年、なんと一人の大学院生によっ て、形式主義の目標が否定的に解決されてしまいました。 この大学院生のゲーデルは、自然数などを含むような数学の体系では証明不可 能な命題が存在することを示し、さらに、数学の体系でその体系が無矛盾であ ることを示すことが証明不能であることを示してしまいました。 これをゲーデルの不完全性定理と言います。

2-2. 計算の原理

シャノンは 1937 年にブール代数が電気回路で構成できると言う修士論文を発 表しました。これにより当時研究が進められていた計算機が十進数から二進数 へと大きく変わっていきました。 シャノンはその後情報量を研究し bit という単位を考えたり、情報理論を発 表しました。

数学基礎論ではその後、計算可能性関数などが研究されるようになりました。、 チューリングは 1936 年にチューリング機械と言う、コンピュータのモデルと なる理論的な計算機を考案しました。 チューリング機械は無限個の升目のあるテープに、読み書きできるヘッドのつ いた状態遷移機械がついたという簡単なものです。 チューリング機械により、計算を形式的に行う方式が確立しました。実際イギ リス人だったチューリングはドイツの暗号の解析を行うために 1943 年にチュー リング機械の原理を応用した世界初の真空管式の暗号解読専用コンピュータを 作りました。 チューリング機械により、計算の原理に関する研究が進み、例えば、計算機プ ログラムが停止するかどうかという「停止問題」を解くプログラムが存在しな いことなどがわかりました。これはゲーデルの不完全性定理の計算機版と言え る結果です。

2-3. 第二次世界大戦

第二次世界大戦はコンピュータの進歩に影響を与えています。 上で示したようにチューリングは戦争で使う暗号解読のためにコンピュータを 開発しました。

ヒルベルトの弟子であったフォンノイマンはハンガリー系のユダヤ人で、数学 の分野で量子力学などに寄与していましたが、戦争直前にアメリカに移住しま した。 そこで、マンハッタン計画という原爆作成のプロジェクトに参加しました。 原爆を正常に爆発させるための爆縮レンズの開発などに携わりました。 そして、砲弾のシミュレーションをするために ENIAC の開発にも携わりまし た。 ENIAC が出来たのは戦争も終った 1946 年でした。 そして、フォンノイマンは水爆の開発などのため軍のコンピュータの開発に取 り組み、始めて報告書の中にプログラムをメモリに内蔵する方式を書きました。 そのため、プログラム内蔵方式のコンピュータははノイマン型と呼ばれます。 その後、彼はゲーム理論や経済学でさらに業績を重ねていきます。

戦争が終ると、多くの科学者は軍を離れていきました。フォンノイマンは例外 でした。 戦後の軍事研究を維持するため、アメリカ軍は科学研究を支援する組織を作り ました。 1948 年にカルフォルニア州のサンタモニカに空軍が非営利組織 RAND を設置 しました。

2-4. スプートニクショックと冷戦

スプートニク1号の図
Sputnik 1

1957 年にソ連が人工衛星の打ち上げに成功したと言うニュースはアメリカに とって大きな衝撃で迎えられました。 これは、ソ連が衛星打ち上げ技術の流用により大陸間弾道弾を製造でき、核先 制攻撃が可能であることでもありました。 このため、アメリカはこれを機に軍事技術に関連する科学技術に対して大きな 支援を始めました。一つは NASA の設立、もう一方は科学技術を推進する ARPA(Advanced Research Projects Agency)でした。 NASA は人類を月に送る巨大なプロジェクトでしたが、 ARPA はペンタゴンの 内部に設置され、巨額な研究支援を行うための小人数の部所でした。

2-5. Joseph Carl Robnett Licklider

J.C.R リックライダーはもともと音響心理学を専門としていました。 1951 年に MIT と軍と共同で防空システム開発のために設置したリンカーン研 究所で人間工学のグループに所属しました。 ここでは半自動防空システム SAGE のために専用のコンピュータが開発されま した。 それまでのコンピュータは特定の計算をオペレータの介在の元で行うのが普通 でしたが、この防空システムは人間の意志をキーボードやライトペンやスイッ チでコンピュータに伝え、その結果がリアルタイムでディスプレイに表示され るというものでした。 この時リックライダーにはコンピュータと人間との共生が見えたと思います。 その後、 1960 年にリックライダーは「人間とコンピュータの共生」という論文を発表 します。

1957 年リックライダーは MIT を辞めて音響コンサルタント会社 BBN(Bolt Beranek and Newman)に勤めますが、そこでコンピュータの研究を立ち上げま す。 リックライダーの後を追って、 MIT から優秀な人材がコンピュータの研究を 行うため、 BBN に集まってきました。 その後リックライダーは 1962 年に ARPA の指揮・統制部門と行動科学部門を 任されることになりました。 そこでは著名な大学のコンピュータの研究者の研究支援をす るため、人的なネットワークを作りました。彼はこれを「インターギャラク ティックネットワーク」と呼んでいました。 この「インターギャラクティックネットワーク」にいる科学者達に人間とコン ピュータ、コンピュータ同士が対話できる統合的なネットワークの開発が可能 が必要ではないかと申し送り書を送っていました。

リックライダーは所属していた部所を情報処理技術局(IPTO)という名前に替え た後、後任にやはり軍のディスプレイシステムの開発に携わっていた、シャノ ンの弟子である 27 歳のサザーランドを据えました。 しかしサザーランドは後任にロバート・テイラーを据えて、 1 年で辞めてい きました。 サザーランドはハーバード大学に移りましたが、ロバート・テイラーのいる ARPA の援助を得てユタ大学にコンピュータグラフィックスの学科を立ち上げ ました。

ARPA を辞めたリックライダーは MIT に戻り、対話型コンピュータの開発に携 わりました。

2-6. ARPANET

当時コンピュータ業界の最大の顧客は軍でした。 ペンタゴンの ARPA にある IPTO には MIT のコンピュータ、 UCB(カルフォル ニア大学バークレイ校)のコンピュータとサンタモニカの AN/FSQ-32V という 軍事用のコンピュータのそれぞれに接続する三台の端末がありました。 しかし、それぞれのコンピュータの端末の使い方は別々だったので、とても不 便でした。 これはリックライダーの時代からの懸案事項でしたが、ついにロバート・テイ ラーがこの「端末問題」の解決に動きました。 つまり、これらのコンピュータをネットワークにより接続することで、複数の 端末を一元化しようという構想で す。テイラーは ARPA の所長にこの件を話したところ 20 分の説明で 100 万 ドル以上の予算を獲得しました。

テイラーはこの計画を実行できる人材として、コンピュータグラフィックの研 究をしながら、コンピュータネットワークの実験に成功し、 OS を作成したり しているリンカーン研究所のラリー・ロバーツを引き抜きました。 そして、インターギャラクティックネットワーク周辺の若い研究者達と話合い を続けるうち、徐々に仕様がまとまってきました。 大型コンピュータ同士を直接制御するのではなく、通信を制御する専用の小型 のコンピュータを使うことが決まりました。 それは IMP(Interface Message Processor)と名付けられました。現在でいう ルータです。 1967 年の学会で、この ARPANET 構想が発表された時、同時にイギリスのデイ ビスが同じようなコンピュータネットワークを開発していることを知りました。 さらに数年前に RAND のポール・バランがほとんど似たような仕事をしていた ことを知りました。

2-7. 分散ネットワークとパケット通信網

ポール・バランは 1959 年に RAND に就職し、すぐに核戦争に耐え得る通信シ ステムについて考えるようになりました。 核戦争を前提とした軍の通信網の機能として、一部の地域が攻撃を受け ても、全体のシステムがダウンしないことが必要でした。 そこで、彼は、当時誰も思いつかなかった、ディジタルコンピュータの通信へ の応用を考案しました。 まず、彼は通信をディジタル信号でやりとりすることを考えました。ディジタ ル信号を使う通信は情報が劣化しないので、多くの中継点を設置できます。 そこでバランは、従来の電話回線のように交換局が多数の信号線を処理するよ うな方式ではなく、多くの中継点が 3,4 本の線で相互に接続し合う分散 ネットワークを考案しました。

さらに、鉄道貨物輸送と同じようなことをディジタル通信に採り入れました。 鉄道貨物輸送では、荷物は貨車の大きさに分割され、送り先までの貨車の道筋 はそれぞれの貨車毎に別々に決められてます。 これと同様に、長いディジタルメッセージを決められた長さのブロックに分け、 それぞれのブロックに宛先を付加してネットワークに送るという手法を採り入 れました。 送信者から受信者までの通信経路は固定されてないので、各メッセージブロッ クは中継点の判断により受信者のいる方向へ送られます。 最後に目的地にばらばらについたメッセージブロックを再度元のメッセージに 組み立て直します。 当時の電話回線は機械式な交換機を使っていましたが、バランの考えたこのネッ トワークの中継点には機械式のものを使うことはできませんでした。 この構想では常にメッセージのブロックの送り先を計算する必要があっ たため、中継点の仕事はコンピュータで行う必要がありました。

バランはこの構想を RAND の研究者達ばかりでなく、当時アメリカ最大の電話 会社である AT & T にも説明しましたが、理解は得られませんでした。 特に AT & T からは電話システムを理解していないと誤解される始末でし た。 バランは周囲の誤解を解き、このネットワークの構想を実現化するために努力 し、多くの報告書を残しました。 最終的に 1965 年に軍は分散ネットワークの構築を行うことを決断しましたが、 部所をバランが関与できる RAND や空軍とは別のところにしてしまったため計 画は断念されてしまいました。

イギリスの国立物理学研究所にいたドナルド・ディヴィスは 1965 年ころから 始めた対話型のコンピュータの通信などのためにパケット通信網に関する研究 を始めました。 このパケットとは長いメッセージをブロック毎に分け、送り先の情報を付加し たもので、ディヴィスが名付けたものです。 そしてこの発表を 1966 年に行いました。 すると、聴衆者の中にアメリカ空軍の関係者がいて、 RAND のポール・バラン が同様の研究をしていたことが告げられました。

ロバーツは ARPA の IPTO に届けられていたバランの論文を理解し、バランと やりとりをしました。 バランはネットワーク構築のためのコンサルタントになりました。

2-8. IMP

1968 年にこのコンピュータ同士を接続するネットワーク ARPANET の中核とな る装置 IMP は入札にかけられました。 IBM や DEC なども応札しましたが、最終的に落札したのは BBN でした。

BBN ではフランク・ハートの指揮下の元 IMP の開発が進められました。 IMP はハネウェル社のミニコン 516 を改造して作られることになりました。 最初に IMP を設置するのは、ネットワーク測定センターのある UCLA、サザー ランドのいるユタ大学、空軍の援助の元マウスを開発したエンゲルバートのい るスタンフォード研究所、同じく軍の援助を得て対話型グラフィックの開発を していた UCSB(カルフォルニア大学サンタバーバラ校)の四箇所になりました。 IMP 0 号機は BBN に納入されましたが、続く IMP 1 号機は UCLA に納入され、 IMP 2 号機はスタンフォード研究所に納入されました。 そして、1969 年に ARPANET は UCLA とスタンフォード研究所間で始めて通信 に成功しました。

2-9. RFC とプロトコル

IMP の製作は BBN が担当しましたが、IMP と大型コンピュータとの接続や、 他のプロトコルの開発などは担当大学などの大学院生達により始められました。 共通の取り決めをまとめるため、回覧文書が作られました。 その回覧文書には、まとめた人の押しつけになるべくならないようにとの配慮 で、 Request for Comment と名付けられました。 以後ネットワークの回覧文書は RFC と名付けられるようになりました。

1972年にファイル転送プロトコルの実験で電子メールが実装されました。 そしてこの時、ユーザ名@ドメイン名というメールアドレスの形式が生まれま した。 そして 1973 年にはネットワーク使用量の 3/4 は電子メールになりました。 その後、 1975 年にメーリングリストが作られました。

1974 年には初期の TCP が発表されました。 これは、それ以前に使われていた NCP という回線の信頼性を前提とした通信 プロトコルに対して、回線の信頼性は仮定せずに、送受信者の関係で通信の信 頼性を確保するというものです。 TCP により、通信回線の品質を保証する必要がなくなり、簡単にネットワーク が構築できるようになりました。

1978 年に TCP は経路制御部分だけを独立したプロトコル IP として独立させ ることが決まりました。 それまでの TCP は ARPANET 全体の通信すべての制御を行ってましたが、 それをパケットを交換するためにゲートウェイ(IMP など)が必要な部分だけを IP というプロトコルとして取り出すことにしました。 そして、1981 年に正式に TCP/IP になりました。

2-10. ARPANETの終焉と Internet

ARPANET が拡大していくうちにさまざまな矛盾が生じてきました。 一つは、 ARPANET に接続できるのは軍事研究を行っている施設だけなので、 ARPANET に接続している大学と接続していない大学の格差が生じることでした。 また、 ARPA (名前を変えて 1972 年に DARPA になった) は研究支援組織であっ て、ネットワーク管理組織ではないということでした。 アメリカの NSF(全米科学財団)は 1983 年に ARPANET とは別のネットワーク CSNET を構築することを決め、多くのコンピュータ研究サイトが接続しました。 その後、1985 年に 5 つの大学にスーパーコンピュータセンターが設置され、 をバックボーン回線で結んだ NSFNET が作られ、ますます学術ネットワークが 拡大して行きました。

ARPANET は 1983 年に TCP/IP に移行しました。 そして、 CSNET の成功や、他のネットワークの拡大の流れを見守り、 1989 年に ARPANET は停止しました。

2-11. Ethernet

1972 年にハワイ大学ではいろいろな島に散在しているキャンパス間の通信シ ステムとして ALOHANET というコンピュータネットワークを構築しました。 これは無線通信で、チャンネルは一つしか使いません。 通信内容はパケットに分割され、各パケットは任意のタイミングで送信されま す。 そして、もし、混信が発生したら任意のタイミングで再送します。

Xerox のパロアルト研究所のボブ・メトカーフはこの ALOHANET を研究し、よ り高速で安価なネットワークとして Ethernet を開発しました。 これは空中を利用する ALOHANET に対して、電波が伝搬する媒体として同軸ケー ブルを利用するものです。 当時サザーランドの弟子であるアラン・ケイはパーソナルコンピュータを提唱 し、この Xerox の研究所で Alto というシステムを作っていました。 これにこの Ethernet が搭載されました。 しかし、 Xerox は Ethernet を商売に結びつけられず、メトカーフは Xerox を辞めて 3COM という会社を興し、 Ethernet 関連商品を販売しました。

リックライダーは ARPA を辞めた後、MIT で対話型コンピュータの開発に携わ りました。そこで AT & T と GE とで共同で開発されたのが Multics と いう OS です。 しかし、この OS は当時のコンピュータの能力では満足に動かせるものではな かったため、プロジェクトは失敗し、 AT & T はプロジェクトから脱退し ます。 そのプロジェクトにいたケン・トンプソンは研究所にあった DEC の PDP-7 というす でに時代遅れのため不要になっていたコンピュータのために Multics の小 型版といえる OS を作りました。 これが UNIX の原型です。 その後、トンプソンは UCB(カルフォルニア大学バークレイ校)に移り UNIX の 研究を続けました。 AT & T でも UNIX の開発が行われていましたので、UCB 版の UNIX は BSD (Berkley Software Distribution バークレイソフトウェア頒布)と呼ばれました。 そして、 UCB でビル・ジョイ達が BSD UNIX に TCP/IP を組み込みました。 その後、 1982 年、ビル・ジョイはスタンフォード大の卒業生と SUN マイクロシステム ズという会社を興し、この BSD UNIX を搭載した小型のコンピュータをワーク ステーションとして発売しました。 この SUN ワークステーションには Ethernet が搭載されていたため、多くの 大学では Ethernet で LAN を組み、外部とは Internet で接続するようにな りました。

2-12. OSI

1970 年代から ISO(国際標準化機構)は独自のネットワーク接続に関する参照 モデルの開発をしていました。 それが OSI です。 1983 年にヴィント・サーフは IBM, DEC, Hewlett-Packard に TCP/IP を使う ように申し出ましたが、それらのメーカはこぞって OSI を採用してネットワー ク築きました。

OSI 準拠のネットワークは各メーカから出ましたが、 どれも TCP/IP ほど単純ではなく、相互接続もままならないため、またインター ネットブームに押し流され、結局事業的には失敗しました。

OSI の参照モデルはもともと TCP/IP を拡張して作られたものですが、今では TCP/IP を説明するために使われるだけに過ぎません。 しかも OSI の参照モデルは TCP/IP をきちんと説明してないため不十分な説 明しかできません。

2-13. パーソナルコンピュータ

1969 年インテルは一つの IC の中にコンピュータの計算部分などを埋め込ん だ CPU i4004 を発売しました。 この時開発には日本のビジコン社の島正利も関係していました。 そして、インテルは i4040, i8008 そして、 i8080 を発売しました。 i4004 はレジスタが 4 bit なので、 0 から F までの値しか保持できませんで した。しかし、 i8080 はレジスタが 8 bit なので、 0 から FF(255) までの 範囲の値を扱うことが出来ましたので、これで数字(10文字)の他英字(大文字 小文字で 52 文字)などの処理が出来るようになりました。

i8080 は 300 ドルで販売されてました。 そして i8080 を使用して作られたミニコンも販売されました。 そこに MITS 社は 420 ドルで ALTAIR-8800 というパソコンのキットを販売し ました。1974 年のことです。 但し、標準キットは CPUと256bytesのRAMメモリ、電源、フロントパネルのLED やスイッチ類だけで、それらを半田づけして組み立てる必要がありました。 なお、ミニコンとは初めは大型コンピュータの部品を組み合わせて小さいコン ピュータを作ることを意味してました。

ビル・ゲイツは ALTAIR に大学で使っていた BASIC を載せることを考え、ポー ル・アレンに提案したところ実際に半月ほどで作ることに成功しました。 この BASIC をビル・ゲイツは MITS に売却して資金を得ました。 そして Microsoft 社を創設します。

ステファン・ウォズニアックも ALTAIR-8800 に憧れていましたが、 420 ドル は手を出すのにははばかられる金額でした。 その時、Moss Technology が 6502 という CPU を 20 ドルで売っているのを 知り、これを購入してキーボードなどを付けて一つのパソコンを作り上げます。 これを高校時代からの友人であるスティーブン・ジョブスが見て、これを事業 化しようと提案します。 ウォズニアックは当時 Hewlett Packard に勤めてましたので、会社に相談し ましたが、会社に断られたため会社を辞めました。 そしてジョブスとお金を出し合い Apple コンピュータと言う会社を興し、ガ レージでこのパソコンを作り発売しました。 これが 1976 年に発売された Apple I で 666.66 ドルでした。 これは基板と 16 進のキーがついていただけで、ディスプレイやフルキーボー ドは付いてませんでした。 そして、株式会社化などで資金を得て 1977 年に Apple II というフルキーボー ド、ディスプレイ端子、 BASIC などの載った完成品のパソコンを 1295 ドル で発売しました。これが完成品としての世界発のパーソナルコンピュータにな りました。

後に IBM は Apple III とそっくりで i8086 CPU を搭載した the PC という パーソナルコンピュータを発売し Apple の市場に食い込んでいきました。 the PC は PC/XT, PC/AT と進化しました。 IBM は回路や BIOS などの情報を開示したため他社(サードバーティ)が参画し て市場が盛り上がりました。 そして、COMPAQ は IBM PC/AT と互換ながら当時の最先端の CPU を搭載した DeskPro386 を発売しました。これは初めてチップセットというLSI を搭載し、 現在のパソコンとほぼ同じようにバスなどの他の回路の速度に関わりなく CPU が高速に動作すると言うものです。

2-14. Macintosh

1979 年に Apple 社は「誰にでも使えるコンピュータ」というプロジェクトを スタートし、 Xerox の研究所を訪ねました。 そこにはアラン・ケイ達が開発した Alto というコンピュータがあり、 その上には Smalltalk というオブジェクト指向型言語と統合環境のシステ ムが動いていました。 もともとこれらのシステムはアラン・ケイの考える Dynabook 構想に基づい て作られたものでした。 この構想は、将来はコンピュータは個人が所有し、本と同じように情報を享受 するための道具になるべきという発想に基づいてます。 そのため、グラフィックディスプレイ、ポインティングデバイス(マウス)、ネッ トワーク、素人でも簡単にプログラミングできるプログラミング環境などがそ なえられています。 この考えに共感したジョブスは Apple 社でこの Dynabook を作ろうと決心し、 Lisa というコンピュータを開発します。 しかし、計画は遅れに遅れ、 1983 年に発売されますが、これは 9998 ドルと 言う高額なものになってしまったため、商業的に成功しませんでした。 その後、Lisa の計画を見直し 1984 年に Macintosh が 2495 ドルで発売され ました。

2-15. 日本のパソコン

日本では NEC が 1976 年に 8080 を搭載した「トレーニングキット TK-80」 という 16 進キーボードと数字が表示できる LED のついた「マイコン」を発 売しました。 そして、その後 1978 年に BASIC 言語、フルキーボード、デレビへのアダプタを搭載 した拡張キット TK-80 BS が発売されました。 東芝は EX80 という互換機を出しました。 一方、日立はベーシックマスターというフルキーボードで白黒テレビアダプタ の付いている BASIC 搭載のマイコンを出しました。 シャープは MZ-80K というカセットテープから BASIC 言語を読み込む形式のマ イコンキットを発売しました。

その後 NEC は 1979年に PC-8001 を発売しヒットさせた後、PC-8801 を発売 し、 1982 年に PC-9801 を発売しました。 この PC-9801 シリーズは 1998 年頃まで日本の標準的なパソコンの地位をほ ぼ独占的に占めました。

PC-9801 シリーズの圧倒的なシェアに最初の歯止めをかけたのが日本 IBM で した。 日本 IBM は (IBMの) PC に接続するようになった高解像度グラフィックアダ プタ VGA ボード(640×480ドットで 16 色)が標準になってきたころ革命的な OS を発売します。 これは従来の文字表示には文字表示専用の回路を利用していたのに対して、文 字をグラフィック画面に書くという方式です。 しかもこれを PC-DOS に単純にドライバを追加するだけで実現しました。 これをV-Text方式と呼び、発売された OS は DOS J4.05/V と呼ばれるものです。1990 年に発売されました。 過去何度も IBM PC 互換機が日本に上陸しましたが、その際、漢字を表示させ るためアメリカで発売されているものとは非互換な漢字表示用の回路が組み込 まれ、動作可能なソフトウェアも限られていました。 しかし、この DOS/V がインストールされた IBM PC であれば、外国製のソフ トウェアと漢字表示が共存できるため、ようやく日本で生きていける IBM PC が完成したということになります。 ただ、この時点では IBM PC 互換機でも同じことができるようになっただけで、 互換性はなく、同じものになったわけではありません。

しかしさらに Windows 95 の登場により、すべてのソフトウェアは Windows 上で動くことになり、漢字など文字すべてがグラフィック画面にかかれるよう になりました。 そのため、 PC-9801 も IBM PC 互換機も Windows 95 が動けば、アプリケー ションソフトは同じものが動作しました。 ここでついにどちらのパソコンもできるできないに関する性能は同じになり、 単純に安価で高速なパソコンが求められるようになりました。 ここで、人件費の高い日本での一社開発である PC-9801 は台湾や韓国などの安価な PC 互換機(Fujitsu FMV など)にシェアを奪われてしまいました。

2-16. 日本のネットワーク

日本の公衆コンピュータネットワークの草分けはパソコン通信です。 特にNEC の PC-VAN(1986年)と日商岩井と富士通の NIFTY-Serve(1987年)が大 きかったです。 これらのパソコン通信と呼ばれるものは、ホストコンピュータにモデムで接続 する形態でした。 通信プロトコルは無方式で、メニュー画面の文字を選択するような仕組みになっ ていました。 従って、コンピュータ同士の通信ではなく、あくまでも人的なネットワークが 構築されていきました。 電子メールも単純にホストコンピュータのファイル処理であり、ホストコン ピュータが違えばメールのやりとりはできませんでした。

さて、一方、アメリカでは NSFNET などのインターネットの他にも、さまざま なネットワークができました。 その中で、 UNIX のホスト同士を電話回線で結び、定期的な接続で電子メールな どを行う UUCP という通信方式で USENET というネットワークが広まりました。 そして、 USENET では電子メールの形式で情報を共有し合う netnews という システムが使われました。これはメーリングリストを発展させたもので、記事 を電子メールの形式で書くと、すべてのサーバにコピーされて記事を閲覧でき るという仕組みです。

コンピュータ通信と言えるもので初めに日本に入ってきたのはこの UUCP 網で した。 1984 年に当時東京工業大学にいた村井純氏らにより JUNET と呼ばれる組織が 作られ、大学や企業の UNIX コンピュータが相互に電話 線で接続されました。 これにより電子メールとネットニュースの環境が整備されていきました。

そして、日本にインターネットが入ってきました。 最初は慶應義塾大学などが中心となった Wide プロジェクトです。 これは企業や大学から寄付を集めて全国規模の実験ネットワークを展開すると いうものです。 他に東京大学理学部が中心となった科学研究プロジェクトの TISN がありまし た。 また、当時の文部省が国立大学間を結ぶ G4FAX 網のための専用回線(64kbps) を間借りして接続する JAIN プロジェクトが発足しました。

その後地域ネットワーク組織が多く立ち上がりました。 東京は TRAIN 東北は TOPIC 九州は KARRN など。

WIDE プロジェクトから独立していったのが JPNIC であり、また IIJ です。 その後、RIM ネットや Bekkoame などの民間プロバイダ会社が立ち上がりまし た。 そして、 NTT などの電話会社も参入して日本に IP 網が張りめぐらされまし た。 文部科学省も学術研究センター(現情報学研究所)を中心とした学術ネットワー ク網 SINET を立ち上げました。

一方、JUNET や JAIN は組織の体力よりも加入者が増え維持が難しくなり発展 解消していきました。 また多くの地域ネットワークも民間業者に移行する形で解消していきました。

現在東京電機大学は SINET WIDE IIJ の三つのネットワーク組織と接続してい ます。


坂本直志 <sakamoto@c.dendai.ac.jp>
東京電機大学工学部情報通信工学科